ROTARY HISTORY OF JAPAN 1概説 日本ロータリー史(1)

日本人第一号のロータリアン福島喜三次氏。大正4年から5年頃(1915-16年)三井物産の子会社で東洋綿花(後のトーメン)のアメリカ・ダラスの社長に福島喜三次(東京高商卒・今の一橋大の前身)という人が居られた。福島氏の下に、ドイツ人でウイリアムという人が居て、ダラス・ロータリークラブの会員になっていたが、或る日福島氏を例会に連れてゆき、入会をすすめたという。福島氏は佐賀県有田市の出身で、有田RCは後年、福島喜三次伝を刊行したが、福島氏がダラスRCに何時入会したかの記録は残っておらず不明であるとしている。だが、当時、ロータリー初期の段階では一業種一名の資格が極めて厳重な頃であり、従ってアディショナル・メンバーとして入会した筈であるから、アディショナルという制度が出来た1915年以降つまり大正4年以降のことだけは間違いなかろうということになっている。福島氏はこういうことで日本人としてロータリアン第一号であるとされている。第一次世界大戦が勃発したのは1914年であり、17年にはアメリカも参戦する。そこでドイツ人のウイリアム氏はドイツへ帰国する。ウイリアム氏の後釜として、福島氏はダラスRCの正会員となる。そのうち、18年に大戦は終結。物産のNY支店、SF支店ともども終戦による取引のロスをみ、ダラスもまた綿花買付の見込違いをやり、福島氏は日本に呼び戻されることになる。福島氏は日本に帰ることになった旨ダラスRCの会長に申し出たら、ダラスの会長から、東京にロータリークラブを設立したらと言われ、渋々引受けて帰国することになる。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 2概説 日本ロータリー史(2)

福島氏が、東京にロータリークラブを作れというダラスRCの会長の命を持って、日本に帰ってきたのが、大正9年(1920年)の1月である。ダラスの会長はRC連合会に特別代表の申請をなし、1920年6月30日までに東京にクラブを設立する全権の委任状を福島氏に送ってきた。これが3月である。福島氏は日本に帰って以来、ロータリーの設立を考えるのであるが、東洋綿花のアメリカ社長という位では、ダラスRCの大実業家の集いの具現は手に負えるものではない。軍人の位にして中尉位の福島氏では…という表現がある。そこで頼み込んだのが、三井銀行の常務であり、かつてダラスの自宅に招いた事のある米山梅吉氏である。米山氏も引受けてみたものの、ロータリーというものがどういうものか、よく分からないので、参加を説得する事が出来ず、なかなかクラブは結成されず、いつしか6月30日の期限が切れてしまう。そこで期限の延長を国際ロータリーに申し入れたところ、条件付で申し入れを承認する委任状が届いた。それは、上海RCに在籍した事があり、現在パシフィック・メイルスチームシップ会社の横浜支店長であるW・L・ジョンストン氏を共同特別代表者として指名してきたのである。以後、国際RCとの手続き関係はジョンストン氏が、人選は米山氏が、雑務、使い走りは福島氏という分担で結成への努力が続けられてゆくのである。大正9年(1920年)10月20日に創立総会が開かれた。総会の時のメンバー20名、後に4名が追加されて、チャーターメンバーは24名となっているが、初代会長に米山梅吉氏、幹事に福島氏が選ばれている。会場は現存するが、お堀端の東京銀行クラブであり、毎月1回、第二水曜日に例会を行う事とし、翌年大正10年の4月1日に承認をされ、日本に初めてのロータリークラブが創立したのである。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 3概説 日本ロータリー史(3)

東京RCで三回の会合の幹事をしただけで、福島喜三次は大正10年3月に、三井物産の大阪支店へ転勤になる。格の違った財界人の中で小さくなっていた福島氏であるが、大阪では水を得た魚の如く動いたという。加島銀行(野村銀行・今のりそな銀行の前身に吸収される)の星野行則氏にロータリーの話を持ってゆく。星野氏は大正11年春訪米使節団長として訪米した際、RIを訪ね、事務総長のチェスリー・ペリーに会い、大阪RC設立の要望を伝えたところ、RIは星野氏に設立の全権を与えたため日本へ帰り、大正11年11月17日、17名を以って大阪RCの創立総会を開くに至る。
東京RCがダラスRCをスポンサーとしているのに対して、大阪RCはRI直轄で出来たクラブであり、本家クラブと言われる。 当時、大阪大丸に露口四郎氏という方が居られたが、ロータリアンとして直ちに副幹事となり、これを4年間、更に幹事を13年間勤め、ロータリーを勉強され、ロータリーの事情に通暁された。更にその後、会報委員長を27年間も勤められたという。
暫らくして、大阪RCの会報は日本一の模範的な会報となり、今もって、大阪RCの直系クラブの会報はこの系統をひき、充実した会報になっている。
ロータリーの役員は1年で交替することになっているが、幹事の役は必ずしもそうではなく、1960年にフィラデルフィアRCでは、その創立50周年の式典で幹事50年勤続の表彰をしたという。また、東京RCでも、内外編物(株)の小林雅一氏が幹事を11年歴任されたという記録がある。
シカゴRCは庶民の集まりであった。従って相互扶助を求めた。東京RCは一流財界人の集まり。相互扶助の必要のない人ばかりの集まりであるから、余り活動をしなかった。それに対して大阪RCでは、RIの直轄クラブとして、最初からロータリーの体をなしていたという評がある。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 4概説 日本ロータリー史(4)

東京RCの会員の選考が極めて厳格であり、超一流人である上に英語の話せる人という条件があった様である。然し定款細則などに対する関心が薄く、出席も悪かったのでクラブの存続も危ぶまれるほどであったが、こんな時にショックを与えたのが大正12年(1923年)9月1日の関東大震災であった。東京、横浜が壊滅したとの報が伝えられるや、直ちにRIから会長ガイ・ガンデカー、幹事のチェスリー・ペリーから大阪の福島氏に見舞電報と共に25,000ドル、シカゴRCから1,500ドル、サンフランシスコ、ニューヨーククラブから夫々1,000ドル、その他各国の503におよぶクラブから続々義援金や救援物資が送られて来て、その額も89,000ドルに達したのである。(この額米価換算で現在の140億円に達するという説がある。)東京RCでは、この義援金を東京、横浜の小学校の再建や被災者救援などに使うとともに、この世界のRCからの奉仕活動に具体的に接して、ロータリーの思想・活動に就いての猛省が行われた。そして大正12年11月14日の臨時総会で、月1回例会の特権を放棄し、標準定款を採用して、毎週1回例会を開くことを決定し、会員もよく出席するようになった。大震災によってロータリーの本質が理解されたというべきであろうか。東京RCでは被災者保護として、東京孤児院に新築1棟を寄贈して、これをロータリー・ホームと名付け、以降10年後の修理を含めて東京クラブの社会奉仕の事業として、その維持がはかられたのである。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 5概説 日本ロータリー史(5)

日本ロータリー史から、少し横道に入ることになるが、大阪RCの実際上の産みの親であり、関東大震災の時にRIの幹事として、多額の寄付金を日本に送ってくれたチェスリー・R・ペリーの事に触れるのも大事なことであろうと思われる。ロータリーと言えばポール・ハリスという。彼は The Founder of Rotary即ちロータリーの創始者と呼ばれているが、ペリーは The Builder of Rotary即ちロータリーの建設者と称されているのであると、笹部誠氏の“ロータリーあれこれ”に記述されている。1908年、ロータリーソングの創始者ハリー・ラグルスの紹介で、シカゴ図書館の役員であるペリーがシカゴクラブへ入会した。彼は事務処理能力にすぐれ、1910年から1942年まで、32年間にわたり国際ロータリーの幹事、事務総長の重職にあった。シカゴRCは、創立後、親睦派と奉仕派に分裂して昏迷の時代であったが、チェスによってその難関を突破する事が出来た。
彼はロータリーというものの舞台を広げて、シカゴ以外にもクラブを設立して、これを連合体の組織にまで発展させしめ、人々の関心をここに向けようとする政策をとった。この方針によって設立されたのが、No.2のサンフランシスコRC、続いてオークランド、ロスアンゼルス、シアトルRC等である。これに伴って彼は1910年に全米ロータリークラブ連合会の組織編成に成功し、同年8月シカゴに16クラブの代表者を集めて自らその議長となり、P・ハリスを初代会長に、彼は幹事となって、後年国際ロータリー(RI)へと発展する第一歩を築いたのである。そしてその事務所をチェスの居たシカゴのFirst ational Bank Building に置いたが、これがその後も長い間RIの本部となったのである。(以上、平島健次郎著 ロータリーにおける歴史の重要性 関西ロータリー研究会発行より)とする基盤である。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 6概説 日本ロータリー史(6)

前述した様に、大正12年の関東大震災後に東京RCは被災者保護として東京孤児院に新築一棟を寄贈して、これをロータリー・ホームと名付け以降10年後の修理を含めて、東京クラブの社会奉仕の事業としてその維持がはかられた。
大正13年10月に、東京ロータリー・ホームの開館、贈呈式が行われた際に東京クラブの会員の6割が家族を伴って参列し、これが日本におけるロータリー家族会の始まりと言われている。
この孤児院について後日談がある。昭和10年に、孤児院の子供達を多摩川園に連れて行こうという事になった。青少年奉仕活動か。その資金をどうするかという事で関幸重という方が、ダンボール箱を持って会員の中を廻り、600円の資金が集まり、これで多摩川園に連れて行く事が出来た。
これがニコニコ箱の起源であり、後、ダンボール箱に代えて、エビスさんの顔を彫った箱を三越に注文して作らしめ、ニコニコ箱としての機能を働かせた。このエビス様は今でも東京RCにあると言う。
このニコニコ箱の起源に就いては異説も有り、昭和5年に大阪RCで、例会に遅刻したら50銭とか1円とか入れた罰金箱がニコニコの先祖であるという話もある。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 7概説 日本ロータリー史(7)

関東大震災を契機として、日本のロータリー運動は本格的になってゆくのであるが、1924年(大正13年)7月に米山梅吉氏が初代のスペシャル・コミッショナーに任命された。地区ガバナーに代わるものと考えたらよい。第2代が井坂孝氏・第三代が平生釟三郎氏である。この三氏の指導のもとに、次々とロータリークラブが日本の大都市に設立されてゆくのであるが、東京、大阪に続いて第3番目に神戸RCが大正13年8月に設立される。スポンサークラブは大阪RC。大阪クラブに一歩先んじられた東京RCは、大正13年12月に名古屋RCを設立した。次いで京都RCが、東京、大阪両クラブの共同スポンサーで設立された。次に横浜RCが設立されるのであるが、日本ロータリー50年史には、次ぎの様に記述されている。東京に近くアメリカにも関係の深い横浜にロータリークラブができあがるのがおくれたのは、まったく関東大震災の打撃によるもので、1925年井坂孝氏が東京RCの会長に就任するに当り、臨機の処置として横浜市を東京クラブの地域内に入れることに定款を変更したところ、RIはこれを認めず、速やかに横浜クラブをつくる様要請してきた…。という経過の後、1927年(昭和2年)6月1日創立総会を開いたのであった。6大都市にロータリーが設立されたことで国内は一応一段落し、次に外地に拡大が移ってゆくのである。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 8概説 日本ロータリー史(8)

国内の6大都市にクラブが設立され、次に昭和3年以降外地へと拡大されてゆくのであるが、国内に設立された戦前のクラブに次ぎの様な特徴があった。それは、東京、大阪クラブのチャーターメンバーが全員日本人であり、以下神戸、名古屋、京都等それに準じた事である。当時の東洋にあるクラブの状況と言えば、例えばマニラRCの会員112人で、うち97人が米人で、フィリッピン人は僅か6名でその他という構成。上海RCでは40%が米人、25%が中国人、20%が英人、その他という構成であった。日本人だけで設立されたという事は、やはり特徴であると思われる。横浜RCが誕生した昭和2年6月に引続いて直ぐ8月に会員25名で京城(現ソウル)RCが設立され、次いで満鉄理事松岡洋右が中心となって、会員23名の大連RCが、更に翌年1929年3月には大連クラブの世話で奉天RC(現藩陽)が誕生し、10月にかの有名なヤマトホテルでチャーターナイトが行われている。翌30年(昭和5年)の4月には、ハルビンRCが誕生し、ここは使用言語が英・露・支・日の四ヶ国に及び週報も露文・英文・邦文の3通りがあった。大連、奉天、ハルビンと旧満州国の各地でクラブが設立されてゆくなかで、首都の新京に設立されるには、1934年(昭和9年)までに待たねばならなかった。新京は軍人、官吏の力が強く容易に設立を許さなかったが、村田省蔵(旧大阪商船社長)がガバナーの時、奉天RCのスポンサーで会員33名を得て発足したのであった。

ROTARY HISTORY OF JAPAN 9概説 日本ロータリー史(9)

台北城北RCと姉妹クラブの関係にある当クラブとして、台北RCの誕生の事情を知っておく事も、あながち無駄な事でもあるまい。
以下、ロータリー日本50年史よりそのまま引用する。
1926年(大正15年)8月に村田省蔵、平生釟三郎ら大阪RCの視察団が台湾を訪れた時、ここにもロータリークラブを作ることが説かれたが、官吏の入会できぬクラブは植民地では難しいということで進まなかった。1930年12月8日香港ホテルで香港ロータリークラブが発会するに際し、シカゴ本部からJ・デイビッドソンが出席するということを聞いた米山梅吉が特に頼んで彼に台湾へ寄ってもらった。デイビッドソンは30年前に台湾に領事として駐在していて、その著“台湾の過去および現在”という名著を書いていた。また彼は1928年、夫人、令嬢を伴って2年半の日時を費やしギリシャのアテネを始め、エデン、エルサレム、シンガポール、ペナン、バンコックなどに23のクラブをつくることに成功していた。1931年1月22日、鉄道ホテルにデイビットソンを招き、ロータリーに関する座談会が開かれ、3月27日鉄道ホテルで台北RCの発会式が行われたのであった。チャーターナイトは31年9月26日、井坂ガバナー夫妻ら19名の来賓を迎え鉄道ホテルで盛大に催されたが、たまたま満州事変の勃発で大阪からの会員の出席が取消されたのは残念であった。(1931年はイクサハジマルとして読まれるといわれていた)台湾ではその後34年(昭和9年)に高雄に、37年に基隆に設立されているが、高雄のチャーターナイトの時に阪神のロータリアンが大阪商船の船を借り切って参加しようとしたが、1週間前に室戸台風に襲われ、この計画は中止になった。然し神戸の直木太一ら6名が参列し、素晴らしい待遇をうけたという。